催狐

Beautiful. (via poortaste)

「想像力というのは世界をフィルターを通して見ることじゃなくて、素の世界にそのまま触れてしまうこと。発狂の感覚に近いと思う」

via Twitter / artron

“答えはない、なぜなら問題が存在しないからだ”― マルセル・デュシャン
“答えはない、なぜなら問題が存在しないからだ”

― マルセル・デュシャン

「答えはない、なぜなら問題が存在しないからだ」 の前に確認しておきたかったこと。

shanti:

神様は何も言わない。「みんな」の答えが返ってくることはない。その諦念と「自分でやるしかない」という引き受けがあった時、突然に「意味」が発見されます。「神は自ら助くる者を助く」です。もちろん、発見を狙った「引き受け」では、奇跡も意味も見つかりません。  この時、遂に「神が動く」のですが、容易に想像がつくように、この「意味の発見」は精神病的性格を帯びたものです。(via 現実界のかけら、アブラハムの羊、鏡に映らなかった物質)

「ラカン-ジジェク」ライン

本書における「3時間で熟睡し起床する」を実行するためのいくつか結論のうち、大きなウェイトをしめるものに「決意」というものがある。(中略)極論をいえば、「方法(ライフハック)なんてなんでもいいから『決意』してみろ」(via 2008-02-06 - puissance de la parole)

ライフハック(笑)と決意-引き受けへの指摘

これらの作品は、総じて「決断主義」的傾向を持つ。「決断主義」とは、つまり「確かに社会は壊れて、正しいことは分からないけど、でもだからといって引きこもっていたら殺されてしまうので、立ちあがり、自分が社会の正しいルールを作っていかなくてはならない」という風に考える、そんな想像力の事である。
(中略)
「新しい想像力」についても、自分達が勝てば自分達のルールが正しいルールになるなんていうのは幼児的居直りだという風に、その難点を述べている。ただ、「新しい想像力」は「古い想像力」の反省の上に成立っており、「古い想像力では生き残れないが、新しい想像力では生き残れる」という機能的な優劣から、「古い想像力」は「新しい想像力」に駆逐されると、予測してる(via 『ゼロ年代の想像力』について(その1)ー『日本の思想』との比較 - sjs7のブログ)

「セカイ系から決断主義へ」の提示から

「想像力というのは世界をフィルターを通して見ることじゃなくて、素の世界にそのまま触れてしまうこと。発狂の感覚に近いと思う」(via 催狐)

「想像力」という言葉の現状もっとも妥当と思われる定義を一旦はさみこんで。(世界の繭の中にもう一つ繭を作っていては何も見えてこない)

しかし『ゼロ年代の想像力』のような問題は、既に批評の場で散々議論されてきたということは、やはり注釈しておかなければ駄目だと思う。 ただ、別に僕はそれを紹介して、この『ゼロ年代の想像力』を論議するのが無意味だと言うつもりは、毛頭ない。 (中略) ただ、やっぱりその「新しいこと」というのは、この『ゼロ年代の想像力』の提示する問題=解決策の本質の中には無いだろう。そしてそうである以上、『ゼロ年代の想像力』の問題の「本質」にばかり目を向けして、ムキになって反論を書くことは、それこそ冒頭に丸山眞男の文から引用したように、
同じような問題の立て方がある時間的間隔をおいて、くりかえし論壇のテーマになっている
のではないか(via 『ゼロ年代の想像力』について(その1)ー『日本の思想』との比較 - sjs7のブログ)

問題の問題という永遠のループを明確にした上で

ドライからウェットへ、その二極しか本当にないのか、と、ある一連の騒動を眺めながら思っていた。今さら80年代的浅田彰的「シラケつつノリ、ノリつつシラケること」の実践を呼びかけるのでもなく、単純さや純真さに甘んじるのでもなく、ドライとウェットというパラダイムからの脱却は、どういったかたちで可能なのか。(via 2008-01-25 - puissance de la parole)

という問題提起。

関連リンク 「裏‐催狐


【娯楽】・・・失意をいよいよ増大させる工夫。

【熱狂】・・・経験という外用薬と、後悔という内服薬を用いれば、この病気は治る。

【長命】・・・死に対する恐れが、異常なほど引き延ばされる状態。

【幽霊】・・・内なる恐怖が外に現れた、目に見えるしるし。

【論理学】・・・人間の理解力ならぬ誤解力の、限界と無能とに厳密に従って思考し、推論を重ねていく技術。

【学識】・・・学問に勤勉な者の特色である一種の無知。

―  アンブローズビアス (via 悪魔の辞典)

「心ここにあらず」という言葉のなんて美しいこと。 — via Twitter / artron
「心ここにあらず」という言葉のなんて美しいこと。 — via Twitter / artron
右と左という語彙が存在しない言語を発見したのは、現存するマヤ族の一つで、グァテマラ国境に近いメキシコ山岳地帯に住むテネハパ族であった。その母語ツェルタル語には右も左もない もし右と左がなかったら (via tsuyatsuya)
辞書で言葉の意味を引いてそれだけじゃわからないからまたその中の言葉を引いて、そうやって次々と言葉の意味を調べていく時の無意味の感覚というか、ゲシュタルト崩壊というか、その刹那に見えそうになる世界というか、そっちに行ってしまいたくなる感覚。

via Twitter / artron

*関連項:http://repsychose.tumblr.com/post/26394892

Hood - You’re worth the whole world - Nodes visual on Vimeo (via Vimeo)

集合知というのは幻想です。どこかになにかが集合するわけではありません。人は明滅するパルスのような、その身体と身体が出会ったときに生まれる光のようなものそのものです。識です。
神様がどこかにいるわけではないのです。生まれたパルスそのものが世界でそれを神と言うのが汎神論で言霊ともいえると思います。ブーメランのように放たれたパルスがもう一度自分に帰ってくることもありますが、それも自分が死ねば観測不可能です。俯瞰でみることができたらそれは虫のようなもの。
神様ってのは虫みたいなものだよ。と澁澤龍彦が言ってましたが、まさにそうだと思います。(via Twitter / artron)

shanti

ジャック・ラカンが、日本語のような文字の使い方をする人々には精神分析をする必要がないのではないかと言ったことのほうが、何かを暗示していた via 松岡正剛の千夜千冊『日本精神分析』柄谷行人
— deltafoxtrot — shanti
“日本語は「動く虫の視点」であると言われる。” — 日本語の主語と述語 ― sa

deltafoxtrotshanti

“日本語は「動く虫の視点」であると言われる。”

日本語の主語と述語 ― sa