「痛い」という感覚は「触覚」である。
唯識理論によれば、触覚は、阿頼耶識(あらやしき)という深層心理が生み出すものであり、現実に存在する、ほおを、つねる指が生み出すものではない。「ほお」も、「指」も、実在しない。「痛い」という触覚は、阿頼耶識から生じる。この阿頼耶識とは、何であろうか。これは、人間が、見たり、聞いたり、臭いをかいだり、触れたり、舌で味わったり、考えたり、行動したりする中で獲得される情報の集積である。
阿頼耶識は、自我執着心である「末那識」(まなしき)と共に深層心理を形成している。では、阿頼耶識とは、自我であるのか。それとも霊魂であるのか。実は仏教では、霊魂の存在を否定している。だから、仏教は無神論である。であるなら阿頼耶識は、霊魂ではない。
それでは、「自我」であるのか。
しかし仏教では、自我の存在も否定しているのである。人間の意識を観察してみよう。1秒前の意識と現在の意識は異なる。昨日の意識と今日の意識は異なる。人間の肉体を構成する物質も、新陳代謝によって刻一刻と変化する。肉体の面でも、意識の面でも、今、この瞬間に存在する人間は、一瞬の間しか存在しないのである。一瞬、一瞬、消滅をくりかえすのが、すべての存在である。これを【刹那滅】と言う。
仏教では、いかなる実体も認めない。あらゆる存在は「相互依存的」であり「無常」(恒常的ではない)であり、「無自性」(固有の性格を持たない)だと説くのが仏教である。
「相互依存性」を指して、仏教では「空」と言う。また、「無」とも言うが、それは、何も無いことを指すのではなく、実体としての存在が、どこにも無く、すべてのものは相互依存関係にあるという事を指す。
ちなみに英語では「空」を「関係性」と訳す。これは空の本質を上手く訳している。実体としての自我が存在しない以上、阿頼耶識も、自我ではなく、刹那滅する情報の集積に過ぎない。昔の仏教徒は、阿頼耶識を、輪廻転生の主体だと考えた。しかし釈迦は、人間が死んだ後、どうなるのかに関しては沈黙を守った。三蔵法師玄奘の唯識派と並ぶ、大乗仏教の哲学の学派・中観派の始祖ナーガールジュナ(龍樹)も、死後には、何も残らないと考え、輪廻転生を否定した。
西洋では、現代になって初めて、フロイト、ユングが発見した深層心理の存在を、唯識学派は遙か昔から認識していたのである。
竹田誠
(via 『電脳奇人列伝』 / 竹田誠 経済学博士、唯識を大いに語る)